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TOKYO SPARKLING STORY
煌めく泡が紡いでいくリアルストーリー…映画のようにドラマのように
岩瀬大二 (d's arena)
バブル入社組。酒と女と旅を愛する編集プロダクション代表。世界最高峰の世界遺産はイタリア女だ! とローマの真ん中で叫んだ経験あり。企業SP、WEBサイト、携帯メディアなどでエディター、プランナー、ライターとして活動中。
Vol.5
バンコク / 恵比寿、3月
07.4.3 up
会社を辞める、そして最後の情熱。
白い息の夜から5ヶ月後の3月。杉崎は今、1年で最も暑い時期を迎えたタイの首都、東南アジアのクロスロード、バンコクにいた。
オフィス街の洗練された空気と庶民の活気が不思議な融合を見せるシーロム地区。王室御用達の老舗の5つ星ホテル。釈迦の名前からとられたルンピニー公園を見下ろす18階の部屋。マホガニーのデスクに夕陽が差し込んでくるころ、昼間の刺すような陽射しと35度を超えるまとわりつくような暑さが嘘のように、その部屋は快適な温度が保たれていた。それでも、新装なったスワンナプーム空港から出た瞬間から感じた午後の火照りが肌に残る。今朝のフライトで成田を立ってからわずか10時間にすぎないのに、身体はすっかりこの地の一員になろうと動き始めている。杉崎は、ルームサービスのモエ・エ・シャンドン、ハーフボトルで喉に爽快な刺激を与えながら手紙を書いていた。

万年筆とホテルの便箋。
〜もはや日本ではeを頭につけなくてもメールといえばケータイかPCで送りあうものを指すようになった〜
久々に愛用の万年筆を便箋に滑らせながら、そんなことを思い浮かべた。

この万年筆は、課長から部長に昇進したときに、部下の「女性社員一同」から贈られたものだ。そのとき、女性社員をとりまとめてこの品を選んだのが「彼女」だった。一同の前でシックにまとめられたラッピングをほどき、そこに納まっている万年筆を見た瞬間、素直に喜びの感情がこぼれた。この会社に入社したとき、大人の切符として初任給の1/3を投じて買った憧れの万年筆がそこに、あった。同じブランドの最新モデルだ。脳で言語をさがさなくても感謝のことばが小さく漏れた。
「本当に、うれしいよ」
やったー、という表情で顔をみあわせる一同。香織が彼女の左腕のあたりを肘で軽く小突く。
「さすがだね」

あまり部下と会話をする杉崎ではないが、彼女は、ふとした杉崎の会話の中身をよく覚えていた。贈り物を選ぶ際に、自分の後輩である男子社員が配属されたときの、その会話を思い出した。新卒君が社員食堂のBランチ -しょうが焼きの定食- を食べながら、杉崎に質問をした。
「課長は、初任給で何を買われたんですか?」
杉崎が答えたのが万年筆だった。彼女はもちろんそのブランド名は知らなかったので、父親に聞いた。モノ好きの父は、そのブランドの成り立ちから、クラシカルなスタイルながら常に革新的な機能を隠し持たせていたことなどを、嬉しそうに彼女に聞かせた。語りながらコーヒーを飲み干した父は最後にポツリとこう言った。
「それにしても、なかなかセンスのいい男だな、お前の上司は」
待ち合わせの時間まであと30分。杉崎は「バンコクの歌舞伎町」パッポンのナイトクラブで、ある人物と落ち合うことになっていた。深夜まで観光客が徘徊、路上を埋め尽くすナイトマーケットに、一時よりは勢いがないがそれでもまだこの街の印象を決めている風俗店と、いかがわしいパブ、すっかり市民権を得たニューハーフクラブ。接待やミールクーポン・トラヴェラー向けのくだらないレストランが軒を並べる一方で、まかない飯の延長線上のような旨い飯を出す店もある。そんなパッポンを相手が指定してきた。杉崎は軽くため息をつき、

「らしいチョイスといえば、らしいチョイスだな」 と独り言。いずれにしても、それまでにこの手紙は書き終えておきたい。
拝啓でもなく、前略でもなく、書き出しは軽いものにしよう、と杉崎は思う。日本語の修飾で自分の本心を隠すことのないように。自然にそんな気持ちになれた。

23年ぶりのバンコク。
大学生らしい行動、杉崎は海外放浪という若気の中にいた。バンコクへ行って、そこから格安チケットを買って蓄えがなくなるまで旅をする。思えばあのころの自分は、実にわがままだった。本音と理想だけで前しか見ていなかった。計画? そんなものになんの意味があるのか。

バブルに日本が浮き立つ直前。4年後、バブル入社組というレッテルの中で就職することになることなど、杉崎に予測できるものではなかった。いや、予測できなかったのは、バブルという時代の到来だけで、自分が唾棄すべき存在ととらえていた会社組織の一員となることについては、予測できないのではなく、予測したくなかった。

自らが置かれた状況、環境、もっと強く言えば自分に与えられた宿命を考えれば、わがままも本音も理想も、今だけのもがきでしかありえないこと。それを認めたくなかった。杉崎はすでに決められた会社に入らなければならない。タイのゴールデントライアングルでも、アンコールワットでも、ベンガル湾の夕陽を浴びるインドの小さな漁村でもなく、それが杉崎のディスティネーションだった。今はただ、現実逃避というトランジットの時間に過ぎないのだ。

ハーフボトルのモエ、最後の1杯をグラスに注ぐ。フルートグラスから立ち上る香りを軽く吸い込む。テキーラのショットのようにグイっとあおり、喉に流し込む。ゴクリという喉を上下する音がなんとも心地よかった。目を閉じ軽く息を吐き出すと、杉崎は一気に万年筆のペン先を滑らせ始めた。
迷いなど、彼女との西麻布の夜からとっくになくなっていたが、今、杉崎は、本当に全てから解放されたような気持ちになった。晴れやかだ。窓の外、ようやく夜が近づいてきたバンコクの灯りが、デスクを静かに照らし始めてきた。

バンコクの18時は東京の20時。ディナー前の「とりシャン」と22時からの「〆(しめ)シャン」の間の時間。いつもは客の会話がBGMになる恵比寿のシャンパン・カフェに空白の時間。『G線上のアリア』のラウンジミュージックアレンジが流れる。彼女の前には、グラスに注がれたジャック・セロスと…杉崎の妻の美しい顔。
SH
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