最初に口を開いたのは杉崎の妻だった。沈黙の緊迫感に堪えかねたわけではなかった。2人とも八分咲きの桜の樹の下にいるような楽しげな表情。そういえばジャック・セロス ブラン・ド・ブラン。 セレクト自体が、軽やかで優しげだった。
「本当によろしいのでしょうか。なんだか申し訳ない気がしてしまうのですけれど」
彼女より7つ歳上。今年40歳を迎える杉崎の妻は、古めかしい言葉を、ごく自然に使った。清潔、清楚、でも軽やかでモードなベージュのブラウス。
「たぶんセリーヌ。美紗子さんには良く似合う」
と彼女。この人といると、なんだか心地よい。このシャンパーニュと同じだ…。
「そんなー。本当に気にしないでください。というか、まさか私の、こんな経験がお役に立つなんて、思ってもいませんでしたから、とっても喜んでます、はい」
美紗子の前では、どういうわけか彼女は大学の部活の後輩キャラになってしまう。彼女2年生、美紗子4年生。自分もそこそこ場馴れしてきたけれど、大人の女性を前にすると、言葉遣いがぎこちなくなって、1オクターブとはいわないけれど多少高くなる。そんな「2年生」。美紗子は、眩しい憧れの「4年生」。再び彼女の心の声。
「しかも筋金入りのお嬢様だし」
筋金入り、と、お嬢様。言葉のギャップにも気がつかないぐらい、美紗子の前では自分らしさを失ってしまう。いや、むしろそれこそが素の彼女なのだ。彼女はそれには気づいている。
美紗子がオリーブを、美しい所作でつまみ微笑む。
「申し訳ありません。私たちの我侭にお付き合いいただいて。ご負担もかけてしまいますよね。お時間も、それから…会社での立場でも」
眉間に皺を寄せた、その皺まで可愛らしい。会社での立場。確かに、この協力は、会社という大きな組織やそこで培われてきた社風というものからすれば、彼女は、不利な立場、好奇な視線の渦の中に置かれる可能性が高い。その可能性98%。のこりの2%は、杉崎と彼女の行動を支持する人々の応援。その力強い応援が風向きを変えるかもしれない。風向きが変わることを期待しているわけではない。不利な立場も好奇な視線もかまわない。ただ、今回の「懇願」を受けて行動する彼女と杉崎を支持する人々が確実に会社にいることに、彼女はうれしさを感じていた。頼れる参謀、親友の香織もいる。どこまで戦力になるかはわからないが、忘年会、新宿で香織にうまく使われたルーキーも、社食で万年筆の会話をした新卒、今は主任としてバリバリがんばるあいつも、「杉崎派」だ。表立って活動しているのは彼女だけだが、それもあえての作戦。それぞれの役割や立場で、杉崎の情熱を支えようと誓い合っているのだ。杉崎と美紗子の我侭ではない。もはやこの行動は、
「つまらない」
と普段の自分を貶めていた彼女にとっては、人生の大きなやりがいとなった。それは、実は、心のどこかで自分たちもつまらない人間だと刷り込んでいた、「ルーキー」にとっても、「主任」にとっても大きな挑戦だった。
2時間の「作戦会議」を終え、美紗子は愛娘の待つ自由が丘の家に帰っていった。杉崎は家にはいない。
「今日は、きっと、杉崎にとっても大切な日だと思います。でも、大丈夫でしょう。ああ見えて…心臓に毛が生えてますから。お2人ぐらいに分けてさしあげたいぐらい」
立ち去り際に微笑みながらサラリといった美紗子。美紗子を見る心地よさ。
心地よさを邪魔するわけでもなく、スッとシャンパンバーのマスターの声が耳に触れる。
「次は何にしましょうか?今、アヤラのブラン・ド・ブランがあいてますよ」
なんて幸せなタイミング。今夜はこのまま、ふわふわの気分でいたい。瞳を閉じた彼女は、シャンパンバーの中で、ひとりだけ柔らかな幸せのオーラの中に包まれていた。
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