杉崎は切り出した。
「大政奉還に興味はない」
杉崎の兄、船木敬一のサー・ウィンストン・チャーチル 1988年を飲む手が止まる。眼がパナマ帽の奥で光った。グラスを置く。
「ほう、随分ズバリと、話は核心に入るねぇ」
「本題に入れと言われたから」
「あいかわらず可愛げのねー弟くんだよ」
敬一はアッシュトレイの上で燻ぶっていたダビドフを忌々しげにもみ消す。
「で、理由はなんだ?」
お前が我慢していてこのレールに乗ってきたのは知っている。だからこそ、なぜこの時期に。兄に代わってレールに乗ってもう25年。今さらレールから降りる理由がわからん。我慢の時期はもう終わったはずだ。それが大人というものだ。敬一は心の中で首を横に振り、肩をすくめた。理解できない。このレールに乗ってさえすればお前は何不自由なく一生を送れるじゃねえか…それとも何か? 今になって恨みを晴らそうってのか?
杉崎と敬一は異母兄弟だ。兄が愛人、弟の杉崎が本妻の子ども。夫の浮気相手が自分より先に子種を宿したことを杉崎の母、つまり本妻は、あきらめの境地で捉えていた。「結婚して10年、子どもを授かれない自分が悪い」。昭和の女の1つのタイプがそこにあった。父親には当時、多少の良心の呵責はあったが、父親もまた「早く跡取りが欲しい」という昭和の男の1つのタイプだった。
敬一は自分が求められない子どもだったのか、求められた子どもだったのか、誰に言われるでもなく幼い身体に微妙な空気を感じて6年を生きた。お父さんという人は、夜から朝にはこの部屋にいない。母に「お父さんはどんな人?」と聞くと決まって返ってきたのは「立派な会社の社長さんだよ」という誇らしげな言葉。愛人という存在に一片の悔いのない生き方。お母さんはお父さんを愛している。それが自分が愛人の子どもであることがわかったあとでも、敬一にとっては誇らしかった。6年を生きて、お父さんの本当の妻という人に子どもができたと聞いたときも、動揺はなかった。お父さんはずーっとお母さんと僕を愛してくれる、と。
「お父さん」は敬一の思惑通りに愛し続けてくれた。それは過剰な形で現れた。杉崎と敬一、2人の父は、すでに本妻への愛情を失っていたのだ。夜から朝にはいなかった部屋、敬一の父はその時間にいるようになった。杉崎が生まれたのはたまたま…だった。気まぐれに酔った勢いで妻を抱いた。4年ぶりのことだった。杉崎はそのときに生を受けた。父は、他の男との情交を疑ったほどの、奇跡のタイミングだった。普通の男であれば、ここに父親としての愛を、本妻との間に宿った子どもに注ぐものだろう。しかし、父親は非情な言葉を放った。
「誰の子どもだとか、そういうことは言わんがな。まあ、一人になっても面倒を見てくれるやつができてよかったな」
妻は妻の座を捨てた。6年前の出来事にも我慢できた妻が、そのときあっさり自分の人生から夫という存在を消した。翌日、妻は旧姓に戻った。杉崎という名に。そして16年後、病に倒れた。ベッドで手を握る高校生の杉崎への言葉は、
「お父さんに恨みはないの。悔しさもない。だって、あなたを私にくれたんだから」
その言葉を最後に、4日後、眠るように、かすかな微笑さえ浮かべて、息をひきとった。
遺言書が見つかった。公的なものではない私信だった。杉崎への最後の願いが書かれていた。
「お父さんの会社で働いてください」
杉崎は理解できなかった。母はわだかまりがなくとも、自分は父と言う男に対して、恨みも悔しさもある。母の苦労と共に生きてきた16年。6畳一間の古びたアパートでの母との暮らしは、愛に包まれたものだった。富はなくとも幸せはあった。しかし、徐々に細くやつれていく母がいた。病に打ち勝つという気力を、成長した自分という存在が奪っていくように杉崎は感じた。
「あなたには不自由をさせてしまった。だから私は頑張った。でも、もう大丈夫」
16歳、名門進学校での入学式。近所の公立高校を目指していた杉崎に、名門私立への進学を強く勧めたのは母だった。無理はさせられないという気持ちと、母の願いとの間で揺れた杉崎は、願いをとった。
入学式の夜、当時はまだ珍しかったシャンパーニュを母は持って返ってきた。
「ダメなことはわかっているけれど…あなたも飲んでみなさい」
ヴーヴ・クリコ。初めて聞く名前だった。結婚前の母は、青山あたりでも名の知れたスタイリッシュな人だったらしい…ということを杉崎は聞いていた。半ば強引に父という男が奪っていったことも。
「そのころ好きだったシャンパンなんだろうか」
杉崎は初めて見るシャンパーニュというお酒を前に想いを巡らせた。サイドボードの奥からフルートグラスが出てきた。こんなグラスもあったんだな、また杉崎は思う。
「母は、今日、自分の過去に決着をつけようというのだろうか…」
シュッというため息にも似た音でコルク栓があく。母がグラスに注ぐ。生まれてから16年間、様々な匂い、香りが鼻腔を通っていったが、この香りは初めてだった。香ばしいような、花のような…心の中にも説明できる語彙を持っていなかった。まだ自分は子どもだ、と杉崎は苦笑した。
母はグラスの中に立ち上る繊細な泡をうっとりと見つめている。そして微笑む。その様子をみて杉崎は思った。このお酒は、もっと人生というやつを経験してから飲むものかもしれない、と。
「母さん、このお酒、今の僕には、まだ早い」
その言葉を聞いた母は、一瞬寂しそうな表情を見せた後、笑顔に変わった。夕立の後の太陽のように。
「かっこいいこと、言うようになったじゃない」
子どもと杯を酌み交わすことを夢見ているのは男親だけじゃない。母は杉崎とシャンパーニュを飲むことを夢見ていた。でも、これでいい、いい男に育った、母は満足だった。今日が最後のチャンスであることを、病に冒されていることを知っていた母は、それでもなお、満足だった。母は立ち上がってラジオをつけた。81年、REO SPEEDWAGONのKEEP ON LOVING YOUが流れた。サビを母と杉崎は同時に口ずさみ、笑いあった。外国で仕事をしたい。結婚前に母が言っていた口ぐせだった。自分がいなければ…杉崎に苦い想いが広がった。
杉崎は約束を守った。21歳、レールに乗ることを決断したアジア行。宝石箱をぶちまけたような夕焼けのベンガル湾をホテルのテラスから見下ろしながら、キリキリに冷えたシャンパーニュを口にした。もう解禁してもいいだろう。それなりに苦しい想いもしてきた。人生というものも少しわかってきた。16歳、入学式の夜を想い出した。涙が止まらなかった。涙の向こうでベンガル湾がより一層輝き、そして滲んでいった。母がきれいな発音で口ずさんだKEEP ON LOVING YOUが、聴こえた。
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