オーヴィレールから富山へ
スター醸造家の新たなる旅
華麗なる転身というよりも驚きの受け止められ方だったのではないか。2018年から19年にかけて、シャンパーニュでは、ダイナミックな、メジャーリーグベースボールの大型三角トレードを思わせるようなシェフドカーブの移籍話で沸いた。名門から名門へ、俊英の抜擢や次代への継承。驚くほどのニュースが飛び交った。その中でも大きく報じられたのが、長らくドン・ぺリニヨンの顔として君臨してきたリシャ―ル・ジェフロワの退任だったが、さらに驚きを呼んだのが、その行く先が、シャンパーニュ、ましてやワイン業界でもなく、日本・富山での日本酒造りという予想外の展開だろう。
実はリシャ―ルは数年前にすでに富山を訪れ、満寿泉(ますいずみ)で知られる桝田酒造店にて酒造りの手習いをはじめていた。世の中には大きく報じられてはいなかったが、満寿泉からの限定ということで数種類の「タイプR」というリシャ―ル印の日本酒をリリースしている。この酒を味わった時の感覚は実に面白いものだった。不思議にシャンパーニュ感があったのだ。その理由はわからなかったが、造る人のセンスや技術、哲学といったものは場所を越えて反映するものなのかと、およそ学術的ではない、それこそスピリチュアルというものを信じる瞬間だった。
そして今回、ついに登場したリシャ―ルの日本酒。その名は「IWA 5」。富山、名水の地、立山町白岩にて、異なる産地で栽培された山田錦、雄町、五百万石の酒米、5種類の酵母をブレンドして造られたという。その詳細については今後探っていきたい。
まずは味わうところからはじめよう。富山から到着後、11℃で1週間ほどセラーにて落ち着け、開栓直前には8℃程度まで冷やし、日本酒というよりもややシャンパーニュに近づけたコンディションでグラスに注ぐ。日本酒のグラス、日本酒にあうワイングラスとシャンパーニュ用の3パターン…といろいろやってはみたが、ここで書く本質的な話でもないので、詳細は他の機会にしよう。香り、そして味わった最初の印象は、「日本酒であって日本酒ではなく、という感覚を持った、でもやっぱり日本酒」。タイプRが「日本酒ではない要素がある、日本酒」という感覚だったので、さらに嬉しい混乱。シャンパーニュのエスプリと日本酒への敬意、それが一段階あがった酒造りの力によってより感じられる。リシャ―ルの一歩進んだ日本酒造りの足跡がしっかり作品に表現されているように思う。ただ、完成形というよりは、今後どんなキャラクターになっていくのか、という期待感も大きい。リシャ―ルのまさかの成長物語を見られるという点では、ドン・ぺリニヨンのP2のコンセプトである「成熟があるからこその次の段階」を思わせるものがある。
富山はシャンパーニュの丘の上の地とは大きく異なる場所だ。3000km超級が連なる立山連峰から1000kmともいわれる深海へと続く湾までの4000kmの高低差が、わずか50km~60kmという距離で結ばれる。北アルプスの山々に降り注ぐ雪は常に山頂にたたえられ、その雪解け水が7つの急流を清冽なまま通り海に注がれる。まるでその地の恵みを理解したかのように、味わいは海の青なのか清流の透明なのか山の緑なのか、海のミネラルの塩味なのか山の岩場の塩気なのか。柔らかい水なのか硬い水なのか、清冽でもあり、それをたたえて緑のダムと呼ばれる静かで豊かな水田もイメージされる。相反する要素がすぐ近くで展開される。両極端という単純なものではなく、またバランスということでもなく、両極端の特徴がお互いを主張しながら緊張を生み出すと同時に、それが不思議な線で結ばれ、幻想的な世界を作り出していく。リシャ―ルはアンサンブルやハーモニーという言葉を使うかもしれないが、もっと伸びやかな対立もその静かな世界の中にある。世界のトップクラスのソリストが静かに静かに奏でる弦楽四重奏とジョージ・ウィンストンがせつなくも喜びを謳歌するピアノの調べ。だが演奏している曲はおそらくエミネム。ハーモニーよりもそんな混沌。と、こんなめちゃくちゃなコメントが頭を駆け巡った後は単純にこんな軽い一言が出る。「不思議だけど、美味しいね」。
造り手の本意ではないだろうが、その後もう一度、今度は低温で3日間置き、再びグラスに注ぐ。当然のことながら力強さは抜け…と書きたいところだが、抜けたのは力強さではなく肩の力。アルコールの豊かさはちゃんと下支えをし、静かに、ゆるやかに広がっていく。過剰な華やかさや甘さは最初にあけたときもなかったが、ここでも甘ったるさはない。温度が上がってきても酸はしっかりしている。むしろ日を置いたからこそ、その存在はわかりやすい。より後味にのびやかで長い酸があり、1分、2分と余韻を感じていると白い花の好ましい蜜がからんでくる。ワインに例えればボルドーのカベルネ・ソーヴィニヨンやメルローではなく、やはりシャンパーニュのシャルドネ、ピノ・ノワールの感覚なのだが、なぜそうなるのか? テクニカルな要素なのか、リシャ―ルの手によるものなのか? 謎が喜ばしく深まる。富山のファットではなくリッチな甘みやボリュームをもった魚介、特にバイ貝を軽くバターでグリルしてライムを少し絞ったような、シンプルだけれど甘みを引き出したような一皿と味わってみたいと妄想した。
丘の上から、峻嶮な山と恵まれた海、そして急流と名水の地へ。白岩というブランド名からはなんとなくチョーク質の恵みを得たシャンパーニュとの共通点も想像できるが、なにかの縁だったのだろうか。果たしてリシャ―ルの富山での新しい旅とはどんなものか。少なくとも「IWA 5」からは期待感しかない。シャンパーニュ好きに、日本酒の扉を開くものとして味わっていただきたい。
text: daiji iwase